🍺西武球場でトレーニング
西武球場に近かったので、ラグビー部の友達二人が始めたビール売りのアルバイトを紹介して貰って始めました。自宅から自転車で30分位ですが、狭山丘陵を登って行くので西武球場へ行く時は大変です。ママチャリでとっても良い足腰のトレーニングになります。帰りは下りなので楽チンです。
当時は現在の様に生ビールの販売はしていなかったので、可愛い女の子が樽を背負っている売り子のビールと違って、高校生、大学生がお腹の前にトレイを肩から掛けて瓶ビールで売っていました。酔っ払ったお客さんがビールをグラウンドに投げたら大変ですので、売る時は紙コップに注ぎます。ビールを積み立ての冷たい時はきれい注げるのですが、時間が経つと泡が多くなって注ぐのが難しくなって来ます。瓶ビールは中瓶の500㎖で20本積んでいたので10kg位ですね。現在の生ビールは20ℓの樽だと思うので20kg・・・。女の子の方が力持ちですね。
言い訳ではありませんが、担ぐのと背負うのでは、だいぶ力の使い方、疲労感が違います。しかもトレイが腰骨に当たって痛い、タオルで抑える様に教わりました。バーベルのデッド・リフトをやっている様なもので、とても重労働です。しかも野球場の階段は結構な急こう配です。最初の頃は、試合の終盤八回・九回には疲れちゃって、九回の攻防はバックネット脇の頂上で隠れて座って休んでいました。体力が付いて来たのと要領を覚えたのと、慣れてきたので、だんだんと余裕が出てきました。余裕が出てくると野球を観ちゃうんですね。
売り方も自分なりにコツを掴みました。野球を観ちゃうと階段を下りる時がゆっくりになりますが、これでは駄目です。登りの時にゆっくりと、お客さんの顔を見渡しながら、ビールいかぁ~すかぁと元気良く大声を出して、頂上まで行くと下り坂は野球を観たいのを我慢して小走りでかけ降りて行きます。ビールが重いので、下りも結構キツいんです。なので野球はあまり観られないんですね。
コツを掴んだおかげで売り上げはいつもNo.2でした。大学生の人がいつもNo.1でその人と反対側(1塁、3塁)に分かれていました。その人が休みの時は売上No.1でした。当日の成績は翌日出勤した時に1番だった、2番だったと教えてくれました。
今の生ビールの売り子の女の子たちは、皆実践していますので、きっとマニュアル化されているのでしょうね。
通勤と労働でラグビーには良いトレーニングになったと思います。公立高校だったので部活も下校時間が決められていたので、ナイターにはギリギリ間に合いました。練習終わってから西武球場で筋トレです。
出勤すると出勤簿に名前を書き、ユニフォームとロッカーのカギを渡されて、1塁か3塁か言われます。関係者ロッカーでキリンビールの青いユニフォームに着替えて指定された側に行きます。西武球場の入り口は外野のバック・スクリーンの裏で右が3塁側、左が1塁側です。ホームベースに行くに従い登り坂になっていて観客席が多くなっています。1塁・3塁共に内野と外野の間位の裏側にテントを張ってビール供給所があります。
他のビール会社も横に並んでいます。そこのテントに行き、小銭入れを腰に巻き、肩掛けトレイをしてお釣りを受け取り、ビールを詰め込みます。おつりはお札は種類ごとに縦方向に半分に折って左手の指先に挟み、小銭は小銭入れに種類ごとに入れます。ビールとコップ、つまみを詰め込んだら、スタートです。1塁・3塁内の何処に行って良いのです。但しバックネット裏は特別なお客さんでビールなどの飲み物や食べ物は注文されたものを席に届ける仕組みとなっていたので、入れません。
ズボンが薄い為に良く破けました。注文されて、立ったままビールを注ぐのは、野球観戦している他のお客さんの邪魔になるので、ビールを注ぐ時はしゃがみます。その時に何回もズボンが破けました。ビールを供給所に置いて、ロッカーまで行ってズボンを取り換えて戻ります。
給料は3回が始まるまでに入れれば、出勤手当が1,500円と歩合制でビール1本5円でした。200本売って 1,000円の計2,500円だったと思います。私は当時、売り上げNo.1のキリンビールでした。このころのビールは、ほとんどの人がキリンビールを好んで飲んでいました。アサヒ、サッポロ、サントリーも販売していましたが、キリンが圧倒的に売れていました。なので掛け声は、「キリンビール、いかぁ~すかぁ」と叫んだ方が注目されます。
キリンビール、いかぁ~すかぁ
1979年(私が小学六年生)に西武ライオンズとしてここ所沢が本拠地となってから、地元ではレオのマークで子供・小学生に人気がありました。友の会に入ると年間何試合でも観戦出来るチケットを小学生の頃のクラスの友達は持っていました。がんばれ!!タブチくん!!と言うアニメ映画もありました。
中学ではバスケに打ち込んでいたので、気にしていませんでしたが、高校でアルバイトをする様になってからは、毎日の様に試合を観ているので、次第にファンになって行きます。
高校一年生の1981年は前期優勝を争うほどだったらしく、でも前年まで最下位でした。
阪神時代から好きだった田淵幸一が四番で、他の選手は知りませんでしたが、だんだん覚えていきます。松沼兄弟、代打の切り札・太田卓司、助っ人外人のスティーブとテリーがいました。
この頃のパ・リーグは前期と後期にシーズンが分かれていて、各々の優勝チームがプレー・オフでパ・リーグ優勝を決めていました。
翌1982年、広岡達郎監督になって大躍進で前期優勝をしてプレー・オフでも日本ハムを倒しパ・リーグ優勝、日本シリーズでは中日ドラゴンズを倒し日本一になりました。この年は春の開幕からアルバイトをして、ほぼ全試合に行きました。西武の躍進に感動しました。フレイ・オフ、日本シリーズの観客は凄く多くて、しかも試合開始2時間前からお客さんがたくさん入り、ビールも良く売れました。20本乗るトレイに30本乗せて売りに行きました。普段の倍以上売れました。プレー・オフ、日本シリーズはデーゲームだったので、学校を休んでアルバイト、西武の応援に行きました。
🏉連戦連敗
ラグビーは、秋季大会の初戦負け、正月明けの新人戦も初戦負け、練習試合も数試合しましたが、勝った記憶がありません。練習も一生懸命にやっているのに、スクラムが押されてしまい、やっとの思いでボールを出してもプレッシャーがかかっているので、後ろで捕まるか、ボールがつながらないとかで攻めることが出来ません。相手にそんなにトライを取られた記憶も無いので、野球の投手戦と言うか貧打線でロー・スコアの勝負でしたが攻められないので勝てませんでした。