難しい印象のあるラグビーですが、実は至って簡単です。ボールを持って前に走れば良いのです。ボールを前に投げなければ、あとは何をしても良いのがラグビーです。
ルールを知らなくても充分楽しめます。やっているプレーヤーもルールを全部、知っているわけではありません。ラグビー場で得意げにルールを説明している彼氏の姿は微笑ましいです。ついつい聞き耳を立ててルールを教わっちゃいます。
🏉ラグビーにはまった
今から思うと根っからの凝り性なのでしょうか。ラグビーをやると決めてからは、徹底的にラグビーの放映を観ました。対抗戦の早慶戦、早明戦、大学選手権、日本選手権、高校ラグビーの花園全国大会と家にいるときはほとんど観たと思います。次第にルールも判る様になって来ました。その頃は早慶明の伝統校が強く、テレビで放映されるのも当然、早慶明を中心とした試合でした。
W ワセダ
早稲田大学ラグビー蹴球部、1918年(大正7年) 創部、大学選手権優勝15回は最多、日本選手権優勝4回、ジャージはエンジと黒の段柄、大学日本一になった時だけに唄われる部歌「荒ぶる」があり、その時の四年生だけが卒業後も公の場で唄うことが許されているそうです。
最後の大学選手権優勝は2008年(平成20年)、1987年(昭和62年)学生最後の日本選手権優勝チーム、グラウンドは上井草で2002年(平成14年)に東伏見から引っ越して全面天然芝のグラウンドと半面の人口芝グラウンド、ウェイト・トレーニング・ルーム、主力メンバーの寮があります。
ワセダ・クラブと言うミニ(小学生)、ジュニア(中学生)のラグビー・スクールもワセダのグラウンドを使用して練習しています。
ラグビーの夏合宿として有名な菅平は早稲田大学が早くから大学のセミナー・ハウスがあり夏合宿を行っていて、菅平ラグビー夏合宿の発掘校の一つです。伝統的に理論的なバックス攻撃が得意で、バックスでボールを展開するゆさぶりからヨコのワセダと言われていました。フルバックがセンターの裏に入りバックス・ラインに参加する攻撃はワセダが菅平で開発してカンペイと呼ばれていました。
K 慶応義塾
慶応義塾大学(ラグビー)蹴球部、1899年(明治32年)創部で日本最古のルーツ校です。大学選手権優勝3回、日本選手権優勝1回、ジャージは黄色と黒の段柄でタイガー・ジャージ、タイガー軍団とも言われていました。最後の大学選手権優勝は、1999年(平成11年)、最後の日本選手権優勝は1985年(昭和60年)。
1995年(平成7年)頃から推薦入学によるラグビー経験者の入学が始まるまでは、一般入試で合格した者だけが入部出来たので、高校の有名選手はほとんどいなく、アップ・アンド・アンダーと呼ばれるボールを高く蹴って、相手がキャッチした瞬間に、魂のタックルでボールを奪う戦法と、地獄の夏合宿と呼ばれる山中湖で徹底的に鍛えられた足腰と魂のタックルが持ち味の泥臭いラグビーが持ち味でした。
今でも推薦入学でも相当な学力が必要なので入学・入部するのは難関です。グラウンドは日吉(神奈川県横浜市港北区)。地獄の夏合宿は慶應義塾大学の施設が山中湖にあり、今でも8月の上旬に行われていて、お盆頃から菅平に行きゲームを行い、最終の仕上げをします。
M メイジ
明治大学ラグビー部、1922年(大正11年)創部、大学選手権優勝12回は早稲田大学に次いで2番目、日本選手権優勝1回、ジャージは紫紺と白の段柄、最後の大学選手権優勝は、1996年(平成8年)、最後の日本選手権優勝は1975年(昭和50年)。
1929年(昭和4年)から67年間に渡り監督を務めた北島忠治さんの教え「前へ」を基本とした、ボールを持ったら前に出る、重戦車と呼ばれたフォワードの強さを前面に出したプレーが特徴で緻密なヨコのワセダと豪快なタテのメイジの対照的な両チームの対戦が特に人気がありました。
対抗戦の最終戦でもあり、優勝を決めることが多かった対戦は、黄金期(1980~1990年代)には国立競技場が満員となり、嵐のコンサートにも引けをとらないプラチナ・チケットでした。グラウンドは八幡山で世田谷区に天然芝のグラウンドがあります。
🏉ラグビーへの決意
当時のお笑いのネタで暗いスポーツとして、ラグビーが紹介されていて、ボールを前に投げてはいけないので地味と言うのがありましたが、年末年始のラグビー三昧で、ラグビーを始める決意を固めました。
幸い志望校は公立高校では珍しくアメリカン・フットボール部があったので志望校としていて、慌てて調べたら幸いにもラグビー部もありました。後は志望校に合格するのみで、きっと受験勉強に励んだことでしょう。